私的なメモ帳―映画の感想とか本の感想とか―

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『セカイからもっと近くに (現実から切り離された文学の諸問題)』

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東浩紀『セカイからもっと近くに (現実から切り離された文学の諸問題)』を読んだのでメモしておく。

 

 結論から言えば面白かった。

 著者の東浩紀氏はこの本をひとことで、「想像力と現実が関係をもつことのむずかしさを主題とした本」《.p2》と述べており「ぼくたちはどうやら、想像力と現実、虚構と現実、文学と社会が切り離された時代に生きています」《.p4》とも語っている。

 つまり、現代の「文学」が単なる現実逃避の手段と化してしまっているということを問題にしている本である(その是非について彼はひとまず措いているが…… 為念《.p4》)。

 その代表的な現れとして「セカイ系」の問題が挙げられている。

 彼はこの本の中でセカイ系を「ネットユーザーのあいだで自然発生的に生まれた言葉なので、確かな定義があるわけではありません」《.p15》と前置きしながら

一般的には、主人公と(たいていの場合は)その恋愛相手とのあいだの小さな人間関係を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな問題に直結させる想像力を意味するものと理解されています《.p15》

 と述べている。

 では、セカイ系の何が問題なのか、彼はセカイ系の困難と表して以下のような指摘をしている。

セカイ系の困難、つまり「社会が描けない」「社会を描く気になれない」「社会を描かなくてもいい」という問題は、オタクやライトノベルサブカルチャーにとどまらず、いまでは日本文化全体に拡がっているとぼくは考えます。だとすれば、そのような社会において、これからの文学はどうなっていくのか、という問いが必然に出てくる。《.p18》

そして、この問題に対して、新井素子法月綸太郎押井守小松左京

四人の作家が「セカイ系の困難」に対してどのような応答をしたのか、それぞれの作品を細かく読解することで明らかにしていこう、そしてそこから「現代日本」において文学にできることはなにかを考えていこう、という書物なのです。《.p18》

 というのが、この本の大筋の内容である。

 

 それぞれの作家の「セカイ系の困難」に対しての応答

 ①新井素子の場合

 現代の人間は「世界」から切り離されています。現代の社会はあまりに複雑で、ぼくたちはもはや社会全体を見渡すことができないし、またさまざまな価値観をもつ人々といちいち向き合うこともできません。そのような無力感こそがセカイ系の台頭の背景にあるわけですが、新井の作品は、それが必ずしも絶対的な孤独を意味するわけではないことを教えてくれています。

 ぼくたちは人間とは付き合えない。というよりも、人間ともまたキャラクターのようにしか付き合えない。それならば、人間ではないものにも家族愛を注げばいい、そうすればそれら人間ではないものこそがぼくたちの人生にわさわさと介入してくる、それが新井の教えです。

 新井は、セカイ系の困難に対して、「人間ではないものを家族と考えろ」と答えた作家でした。《.p44》

 

 ②法月綸太郎の場合

 社会の存在しないところで、いかに小説を書くか。これが本書の問いです。

 法月はその問いに対して、新井のようにはっきりとした答えを出すことができませんでした。けれども彼は、小説家特有の変形を施すことで、同じ問いに対して、倫太郎の恋愛の可能性というかたちで答えを示そうとしたように思います。それは、「新本格」という、セカイ系の先駆でもある記号的で遊戯的な小説の一ジャンルが、小説の存在理由という哲学的な問題にもっとも肉薄した瞬間でもありました。

 小説はなんのためにあるのか。それはひとがひとを愛するからだ。法月が『ふたたび赤い悪夢』で言いたかったのは、おそらくはそういうことなのです。《.p73》

 ③押井守の場合

 東浩紀氏は押井守の映画『スカイ・クロラ』を分析した上で以下のように述べる。

主人公がセカイ系の困難を脱する物語。草薙と函南が手を携えてティーチャを打ち破り、戦争を終わらせ、キルドレであることをやめ、成熟し大人になる物語。観客はおそらくそちらのほうを好んだことでしょう。けれども押井はきっと、そのような物語は「声高に叫ぶ空虚な正義や、紋切り型の励まし」にすぎないと考えたのです。想像力は社会を変えることができない、主人公は運命を変えることができない、押井においてはその不能性に対する絶望がだれよりも深く重かった。だからこそ彼は、ループの維持そのもの、不能性の徹底的な自覚そのものに希望を見出すというアクロバティックな物語を創らなければならなかったのだと、ぼくは思います。《.p111》

 (省略)そして押井は、同じように要約すれば、その困難に対して、不能性のなかに徹底してとどまれ、その反復はだれかほかのひとにとって希望かもしれないのだからと答えていたと言うことができます。

 これはとても奇妙な解答です。少なくとも、新井や法月より観念的ではあります。しかしそれはまた同時に、新井や法月よりも誠実だということもできます。革命ができない主人公にとっては、虚構に耽溺することも恋愛することも、ともに現実逃避と言えば現実逃避だからです。《.p112》

 ④小松左京の場合

 生殖への欲望こそが、ぼくたちをセカイ系から、そして「マザコンが母に守られて生み出す思弁小説」の罠から救ってくれる。――こう要約するとそれはたいへん身も蓋もない話に聞こえるのですが(童貞はまず風俗に行け的な)、しかし、生殖こそが生を生み出すものであり、そして社会を生み出すものであるのならば、社会に対する信頼が失われたとき作家たちがふたたびその意味の検討に戻っていくのは当然のことのようにも思われます。

 想像力と現実を繋ぐ社会とは別のもの、事故を超える長い長い命の繋がり、新井はそれを家族の問題として、法月はそれを恋愛の問題として、押井はそれをループの問題としてそれぞれを捉えていました。それはもしかしたら、作家たち自身は自覚していないかもしれません。しかし彼らはすべて、創作活動を続けるなかで、想像力と現実を繋ぐために別のものを求めざるをえなかった。セカイ系の困難への応答とは、そのことを意味しています。《.p155》

感想

 結局、私みたいな真性コミュ障人間は押井守ルートに行くしかないですね。まあ、その前に不能性の自覚を徹底することにより希望を見出せるのかどうかということに対しての議論がなかったのがこの本の残念なところだし(紙幅の都合もあるだろうし本筋から外れるからしょうがないんでしょうが)、実際それが可能なのかどうかというのも疑問に思いました。

 セカイからもっと近くにというのは、厳しいですね。

 正直、私の場合は世界に受容されずに「セカイ」に逃げ込み世界なんか本当にどうでもよくなってしまった(そう思い込もうとしている)タイプの人間なので・・・・・・。

 セカイからもっと近くにという試みは非常に素晴らしいと思うし、文学が社会に目を向けてそういった作品をみんなが消費できる世の中というのは本当に望ましい社会だと個人的には思いますが、それを強制することができない世の中では如何にしてそういった文脈を共有できるようにするかというのが非常に大きな問題だと思います。

 まあ、一番重要なのは、私みたいな根本的な精神のありようが腐っている人間を増やさないことでしょうね(白目)。

 子供の頃からの教育や環境によっては、社会に対して興味をもち、そういった本や文学を消費できるような市民や国民を育成することは可能なのでしょうが、現状そういった目的意識をもった人たちが少なからず存在しない限り舵の取りようはないと思いますね。

こんな人間にならないようにちゃんと子供を育てないとね。私には関係ないけど、グスン(T_T)