私的なメモ帳―映画の感想とか本の感想とか―

パッチアダムスって映画が一番好き

【映画】 ショーシャンクの空にを見た 【感想】 ※ネタバレあり

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Huluにあがってたので久々にショーシャンクの空にを見てみた。

今回で3回目になるが、初めてこの作品をみた時は、「BTTFシリーズやこれより面白いエンターテイメント作品はあるのか」と思ったほどに衝撃を受けたのを思い出す。

それから大分時間が経ち、それより面白い作品が少数ながらでてきた。

 

たとえば海外ドラマの『プリズンブレイク』だ。物語の内容を要約すると主人公マイケル・スコフィールドが無実の死刑囚である兄のリンカーン・バローズを助けるために銀行強盗を起こしフォックスリバー州立刑務所に収監されて共に脱獄を試みる話だ。

 

このプリズンブレイクも同じ脱獄ものであるショーシャンクの空にかなり影響されているということがわかる。脱獄するために掘った壁の石を外に捨てるシーン、あるいは同性の囚人にケツを掘られそうになったり、看守を買収する囚人がいたり、調達屋の存在や刑務所の所長に主人公が気に入られるなど複数の類似点が見られる(これらはアメリカの刑務所ではよくあることなのだろうか)。

 

個人的にショーシャンクの空にで一番好きな点はモーガン・フリーマンに救いがあるという点(雨に打たれながら空を見上げるシーンも捨てがたいですが)。というか数十年以上も刑務所にいたらシャバで報われるのはほぼ不可能で、社会に適応できなくて首吊るしかないというのが少なくない現実なんでしょうが……。

 

過去にあった過ちを知りながら彼に救いを与えた主人公というのは感慨深く心に残る映画でした。

ロレンツォのオイル

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 測定不能/100

あらすじ

ひとり息子であるロレンツォの難病を治すことの出来る医師が居ないと知り、オドーネ夫妻(夫オーギュストと妻ミケーラ)は医学的知識が無いにもかかわらず自力で治療法を探すことを決意。

治療法を見つけ出すため、もはや手の尽くしようがないと信じる医師、科学者、支援団体らと衝突する。しかし自らの意志を貫き、医学図書館に通い詰め、動物実験を参照し、世界中の研究者や一流の医学者らに問い合わせ、さらに自ら副腎白質ジストロフィーに関する国際的シンポジウムを組織するに到る。

死に物狂いの努力に関わらず、息子の様態は日々悪化する。次第に彼らが参加していた支援団体のコーディネーターからも疑いの念が抱かれるなか、彼らは食餌療法として特定のオイル(実際にはエルカ酸オレイン酸トリグリセリドを1:4の割合で配合したもの)に関する治療法を思いつく。100以上の世界中の会社に問い合わせた結果、適切な方法で蒸留することが出来る定年間近の英国老化学者を探し出す。

 

ロレンツォのオイルの医学的効果

副腎白質ジストロフィー adrenoleukodysprophy(ALD)は、ロレンツォが発症した1982年当時治療方法がまったくなく、診断されてから多くは2年以内に死亡することが多かった。オドーネ夫妻が考案した「ロレンツォのオイル」はオレイン酸エルカ酸の混合物で、ALDの病態である脱ミエリン化を起こす極長鎖脂肪酸(VLCFA)を低下させる一種の栄養療法である。

映画にあるように血中VLCFA値の低下作用は明らかだったが、治療効果については当時より賛否両論であった。多くの患児の両親が「ロレンツォのオ イル」を求めて争って投与したが、実際にはALD症状改善を認めることは少なかった。植物状態で死を待つだけだったロレンツォが「ロレンツォのオイル」に よって劇的に改善し、両親との意志疎通さえも可能となる映画のラストが感動的だっただけに、逆に多くの両親の失望は大きかったといえる。1993年の New England Journal of Medicineに「ロレンツォのオイルは無効である」という論文が発表されており、さらにEditorialで「医学は映画のように簡単にはいかない」 という痛烈な批判がなされたことが決定的だった。

映画の中で、両親の性急さをしばしば諌め、ALDの全患児に責任ある医師の立場として「ロレンツォのオイル」の臨床使用を断る、いわば「悪役」とし てのニコラウス教授のモデルとなったのは、ALDの世界的な権威であったProf. Mosarである。しかし実は「ロレンツォのオイル」が無効と言われ、詐欺師やインチキとまで批判されたロレンツォの両親を最後まで支持し擁護していたの がそのMosarだったのである。「オイル」の臨床試験を地道に続け、2005年に「ロレンツォのオイルはすでに症状が進行した患児には無効だが、血中 VLCFA値が高値を示す児の発症予防や症状軽減には有効」という画期的な論文を出した。現在では,スクリーニングによって発症前の患児を見つけ、早期か ら「ロレンツォのオイル」を投与して発症予防を行うというプログラムが北米では進められている。

 公平を期すためにロレンツォのオイルの効果にたいする疑義に対しても併記しておく。

 結果としては、全面的な効果を肯定するものではなかったが、「血中 VLCFA値が高値を示す児の発症予防や症状軽減には有効」という論文が出ている。

『セカイからもっと近くに (現実から切り離された文学の諸問題)』

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東浩紀『セカイからもっと近くに (現実から切り離された文学の諸問題)』を読んだのでメモしておく。

 

 結論から言えば面白かった。

 著者の東浩紀氏はこの本をひとことで、「想像力と現実が関係をもつことのむずかしさを主題とした本」《.p2》と述べており「ぼくたちはどうやら、想像力と現実、虚構と現実、文学と社会が切り離された時代に生きています」《.p4》とも語っている。

 つまり、現代の「文学」が単なる現実逃避の手段と化してしまっているということを問題にしている本である(その是非について彼はひとまず措いているが…… 為念《.p4》)。

 その代表的な現れとして「セカイ系」の問題が挙げられている。

 彼はこの本の中でセカイ系を「ネットユーザーのあいだで自然発生的に生まれた言葉なので、確かな定義があるわけではありません」《.p15》と前置きしながら

一般的には、主人公と(たいていの場合は)その恋愛相手とのあいだの小さな人間関係を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな問題に直結させる想像力を意味するものと理解されています《.p15》

 と述べている。

 では、セカイ系の何が問題なのか、彼はセカイ系の困難と表して以下のような指摘をしている。

セカイ系の困難、つまり「社会が描けない」「社会を描く気になれない」「社会を描かなくてもいい」という問題は、オタクやライトノベルサブカルチャーにとどまらず、いまでは日本文化全体に拡がっているとぼくは考えます。だとすれば、そのような社会において、これからの文学はどうなっていくのか、という問いが必然に出てくる。《.p18》

そして、この問題に対して、新井素子法月綸太郎押井守小松左京

四人の作家が「セカイ系の困難」に対してどのような応答をしたのか、それぞれの作品を細かく読解することで明らかにしていこう、そしてそこから「現代日本」において文学にできることはなにかを考えていこう、という書物なのです。《.p18》

 というのが、この本の大筋の内容である。

 

 それぞれの作家の「セカイ系の困難」に対しての応答

 ①新井素子の場合

 現代の人間は「世界」から切り離されています。現代の社会はあまりに複雑で、ぼくたちはもはや社会全体を見渡すことができないし、またさまざまな価値観をもつ人々といちいち向き合うこともできません。そのような無力感こそがセカイ系の台頭の背景にあるわけですが、新井の作品は、それが必ずしも絶対的な孤独を意味するわけではないことを教えてくれています。

 ぼくたちは人間とは付き合えない。というよりも、人間ともまたキャラクターのようにしか付き合えない。それならば、人間ではないものにも家族愛を注げばいい、そうすればそれら人間ではないものこそがぼくたちの人生にわさわさと介入してくる、それが新井の教えです。

 新井は、セカイ系の困難に対して、「人間ではないものを家族と考えろ」と答えた作家でした。《.p44》

 

 ②法月綸太郎の場合

 社会の存在しないところで、いかに小説を書くか。これが本書の問いです。

 法月はその問いに対して、新井のようにはっきりとした答えを出すことができませんでした。けれども彼は、小説家特有の変形を施すことで、同じ問いに対して、倫太郎の恋愛の可能性というかたちで答えを示そうとしたように思います。それは、「新本格」という、セカイ系の先駆でもある記号的で遊戯的な小説の一ジャンルが、小説の存在理由という哲学的な問題にもっとも肉薄した瞬間でもありました。

 小説はなんのためにあるのか。それはひとがひとを愛するからだ。法月が『ふたたび赤い悪夢』で言いたかったのは、おそらくはそういうことなのです。《.p73》

 ③押井守の場合

 東浩紀氏は押井守の映画『スカイ・クロラ』を分析した上で以下のように述べる。

主人公がセカイ系の困難を脱する物語。草薙と函南が手を携えてティーチャを打ち破り、戦争を終わらせ、キルドレであることをやめ、成熟し大人になる物語。観客はおそらくそちらのほうを好んだことでしょう。けれども押井はきっと、そのような物語は「声高に叫ぶ空虚な正義や、紋切り型の励まし」にすぎないと考えたのです。想像力は社会を変えることができない、主人公は運命を変えることができない、押井においてはその不能性に対する絶望がだれよりも深く重かった。だからこそ彼は、ループの維持そのもの、不能性の徹底的な自覚そのものに希望を見出すというアクロバティックな物語を創らなければならなかったのだと、ぼくは思います。《.p111》

 (省略)そして押井は、同じように要約すれば、その困難に対して、不能性のなかに徹底してとどまれ、その反復はだれかほかのひとにとって希望かもしれないのだからと答えていたと言うことができます。

 これはとても奇妙な解答です。少なくとも、新井や法月より観念的ではあります。しかしそれはまた同時に、新井や法月よりも誠実だということもできます。革命ができない主人公にとっては、虚構に耽溺することも恋愛することも、ともに現実逃避と言えば現実逃避だからです。《.p112》

 ④小松左京の場合

 生殖への欲望こそが、ぼくたちをセカイ系から、そして「マザコンが母に守られて生み出す思弁小説」の罠から救ってくれる。――こう要約するとそれはたいへん身も蓋もない話に聞こえるのですが(童貞はまず風俗に行け的な)、しかし、生殖こそが生を生み出すものであり、そして社会を生み出すものであるのならば、社会に対する信頼が失われたとき作家たちがふたたびその意味の検討に戻っていくのは当然のことのようにも思われます。

 想像力と現実を繋ぐ社会とは別のもの、事故を超える長い長い命の繋がり、新井はそれを家族の問題として、法月はそれを恋愛の問題として、押井はそれをループの問題としてそれぞれを捉えていました。それはもしかしたら、作家たち自身は自覚していないかもしれません。しかし彼らはすべて、創作活動を続けるなかで、想像力と現実を繋ぐために別のものを求めざるをえなかった。セカイ系の困難への応答とは、そのことを意味しています。《.p155》

感想

 結局、私みたいな真性コミュ障人間は押井守ルートに行くしかないですね。まあ、その前に不能性の自覚を徹底することにより希望を見出せるのかどうかということに対しての議論がなかったのがこの本の残念なところだし(紙幅の都合もあるだろうし本筋から外れるからしょうがないんでしょうが)、実際それが可能なのかどうかというのも疑問に思いました。

 セカイからもっと近くにというのは、厳しいですね。

 正直、私の場合は世界に受容されずに「セカイ」に逃げ込み世界なんか本当にどうでもよくなってしまった(そう思い込もうとしている)タイプの人間なので・・・・・・。

 セカイからもっと近くにという試みは非常に素晴らしいと思うし、文学が社会に目を向けてそういった作品をみんなが消費できる世の中というのは本当に望ましい社会だと個人的には思いますが、それを強制することができない世の中では如何にしてそういった文脈を共有できるようにするかというのが非常に大きな問題だと思います。

 まあ、一番重要なのは、私みたいな根本的な精神のありようが腐っている人間を増やさないことでしょうね(白目)。

 子供の頃からの教育や環境によっては、社会に対して興味をもち、そういった本や文学を消費できるような市民や国民を育成することは可能なのでしょうが、現状そういった目的意識をもった人たちが少なからず存在しない限り舵の取りようはないと思いますね。

こんな人間にならないようにちゃんと子供を育てないとね。私には関係ないけど、グスン(T_T)

【※ネタバレ注意】ハリーポッターシリーズを見終わった

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 今さらだけど、ようやくハリーポッターシリーズを見終わった。ルーナがかわいい、ハーマイオニーがかわいいとか色々あるけれど、セブルス・スネイプに注目してほしい。最もハリーを愛していたのは彼だったんだから。

 ハリーポッターなんてのは一般的には単なるエンターテイメント作品なのかもしれないけど、セブルス・スネイプだけはガチ。一作目の賢者の石の時から彼はヒール役だったんだけれど、ラストの死の秘宝で明かされる彼の生涯を知ったときその評価は一変する。ここでは詳しく述べないが、彼ほどハリーの事を考えていた人はいない。

 父親のジェームズに対する敵愾心と母親のリリーに対する純愛が入り混じった複雑な情況がハリーに対する態度に表れていたんだな(どうでもいいけどスネイプは童貞で生涯を終えたのだろうか)。

 エンターテイメント作品としてはもちろん最高峰、それに加えてダンブルドア、マクゴナガルなどの味のある脇役もよかった。ハリーがジニーと結ばれたのがどうもしっくりこないと思ったけど作者も同じような事言ってたんですな(ロンが可哀想すぎる)。

「ハーマイオニーはハリーと結婚すべきだった」 ハリポタ原作者が告白

90点/100

 

ミリオンダラー・ベイビー

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95点/100

監督・製作・主演がクリント・イーストウッドのせいなのか通りで『グラン・トリノ』と似ているなと思った(ちな個人的には『グラン・トリノ』より『ミリオンダラー・ベイビー』の方が好きだが)。

最初この映画の宣伝を見た時、単なるシンデレラストーリーなのかと誤解していたが、全くそういう話ではなかった。むしろ宗教的な映画であるといった方が正しい。

グラン・トリノ』も宗教性を帯びた映画であったが、単純にどちらが感動できるかといったら本作であろう。

 

以下ネタバレ含む

終盤の方でマギー(女子ボクサー)が、頚椎を損傷して全く動けない状態になるのだが、そのせいで彼女は思い悩み、生きながら死ぬより物理的に死ぬ方を選んだ。こういった生死に関わる宗教的テーマを『グラン・トリノ』でもクリント・イーストウッド監督は撮っているんですよね。なんか彼のことが気になってきたぞ。

 

 

 

ラブアクチュアリー

 

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恋愛ものはあまり好きじゃないんだけラブアクチュアリー案外よかった。

序盤中盤は面白くないなあと思ってたんだけど終盤にかけてが最高。

特にジェイミーがオーレリアにプロポーズするシーンはすごいよね

今まで見た恋愛ものの中では一番ですわ。

65点/100

ホットファズ 俺たちスーパーポリスメン

55点/100

それなりに面白い。アクションコメディに分類されるんだろうけれども演出的には結構シリアスな場面も多い。

優秀すぎて田舎に左遷された警官の主人公が、田舎で大活躍する話。良くも悪くもエンターテイメント作品だった。